近年、「スピリチュアリティ」という言葉が注目を集めています。

日本での火付け役は、最近までテレビによく登場していたスピリチュアル・カウンセラーこと江原啓之氏といえるでしょうか。個人的には江原氏の「スピリチュアリズム」や細木数子氏の「六星占術」の話にはあまり興味も関心もないのですが、ただ、両氏が登場するテレビ番組や書店に高く積み上げられた彼らの著書をみるにつけ、「スピリチュアリティ現象って、日本社会のなかでかなり市民権をえているんだなぁ」ということを感じます。

「スピリチュアリティ」というカタカナ言葉を日本語のYahoo!で検索してみると、なんと9万1000件がヒットします。とはいえ、日本社会のなかで「スピリチュアリティ」なんて言葉を使う人はいまでもごくごく一部の人に限られているのではないでしょうか。日本では、1990年代以降、まず医療・看護の世界で「スピリチュアリティ」「スピリチュアル・ケア」という言葉が急速に使われるようになりました。しかし、医師、看護師、社会福祉士、介護福祉士といった医療・看護の専門職が同語をよく用いるのに対して、彼らのサービスを利用する患者や被介護者の側はそんな言葉は使わないのが普通です。つまり、「スピリチュアリティ」とはあくまでも専門家が好んで用いる「ジャーゴン」(専門用語)であって、日常的な用語ではないのです。ところが、こうしたねじれ現象、つまり「ほとんど日常的には使われない、あるいはごく一部の専門家しか使わない言葉なのに、なぜか日常生活には現象としてかなり広く浸透しているもの」、それがスピリチュアリティ(現象)なのです。

スピリチュアリティ運動/現象/文化と呼ばれているもののなかには、アメリカのニューエイジ運動、チャネリング、UFO、臨死体験、霊体験、自己啓発セミナー、占い、風水、トランスパーソナル心理学、終末論、心霊学、気功、ヒーリング(癒し)、様々なセラピー、インド神秘思想、ターミナルケア、映画『ガイアシンフォニー』、死生学、日本の精神世界などが含まれます。それは、いわゆる宗教とは違う(というよりも、特定の宗教とは関係ないことを強調しながらも)、しかしとても宗教的な感じがするものといえます。東京大学の島薗進氏がそうした日本のスピリチュアリティ運動/現象のことを「新霊性運動/文化」と名づけたのは1990年代初頭のことでした。

いま、「宗教そのものではないけれど宗教的なもの」(スピリチュアリティ)が国際政治やアジア・アフリカ政治のなかに台頭している、という直感のようなものを私は強く感じます。アルカイダが「組織」としてアメリカ合衆国における9・11同時多発テロを起したのだとしても、その後のイギリスの地下鉄・バス爆破事件やテロ未遂事件などをみてみると、もはやそれは宗教過激派組織によるものではなく「現象」のようにみえます。そこでは、イスラームという宗教を形づくっていた教義も宗派も組織もある意味で関係ないのかもしれません。もちろんイスラームという宗教と完全に無関係ではないけれど、内実はイスラームと関係ない、あるいは正反対の論理やメッセージがインターネットなどを通じて世界に流布し、一部の人々の心を呑み込み、テロ事件などを引き起こしているのです。冷戦後、「文明の衝突」だとか「宗教の復興」だとかという言辞が一時もてはやされましたが、いま国際社会で起きているのは、「文明の衝突」や「宗教の復興」という言葉では十全に表現も理解もできない、「生と死と暴力をめぐるスピリチュアリティ現象の台頭」のようなものなのかもしれません。

ところで先日、スティーブン・エリスとゲリー・テール・ハール著『パワーの諸世界:アフリカにおける宗教的思想と政治的実践』という本を斜め読みしました。同書も今日のスピリチュアリティ論にとても親和的な議論を展開していました。つまり、同書は、アフリカ社会における宗教は必ずしも教団や教義を意味しないとした上で、「大統領は呪術師から超自然的なパワーをえている」といった、アフリカ諸国の政治家などをめぐって頻繁に囁かれる噂や流言のことを「歩道ラジオ」(pavement radio)と呼び、それを大衆が作り出す宗教現象として分析しているのです。

「ローマ法王がイスラームの聖戦を非難する発言をした」というニュースが衛星テレビやインターネットを通じて世界を駆け抜けると、そのニュースの構成パーツ(つまり、「ローマ法王」「ジハード」「暴力」「十字軍」「非難」といった部品)がアラブ社会をはじめとする各地域社会のなかに残留し、やがて特有の流言や噂となって再生産されていきます。そうした「生産物」は必ずしも宗教そのものではないけれど、しかし宗教的な意味合い・パワー・秘儀性を付与されて人から人に伝播し、場合によっては、暴力の淵源ともなっていくのです。

私たちが生きる今日の国際社会は、「文明の衝突」や「宗教の復興」よりもむしろそうした「生と死と暴力のスピリチュアリティ現象の台頭」がみられるという意味で、もしかすると、危うい社会なのかもしれません(落合雄彦)。

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